エモい文章は、「『固有名詞』×日常性で作れる」(嘉島唯「エモい文章の作り方」より)。
「エモい」ってなんだ?
一年ほど前から、私はこの「エモい」なる言葉をよく目にするようになった。きっかけは落合陽一氏の著作だ。彼は頻繁に「エモい」あるいは「エモ」という言葉を使っている。 私はこの言葉がよくわからず、Twitterで「エモい……?」と言っていたら、洋楽好きの知り合いが「元々は音楽のひとつの潮流だった」と教えてくれた。 それが正しいのかどうかも、私には検証するすべがなかったけれど、どうにも落合さんやその他Twitter上で流れてくる「エモさ」と音楽とは関係がないだろうことはおぼろげに理解できた。 「エモい」とは、なんぞや。書き手の側から、この不明瞭な言葉を掴まえようとしたのが、嘉島唯氏の「エモい文章の作り方」である。

エモい文章の作り方|嘉島唯|note
エモい。この不明瞭な形容詞が定着するなんて思わなかった。 エモさとは何なのか? Wikipediaには「感情が動かされた状態」、「感情が高まって強く訴えかける心の動きなどを意味する日本語の形容詞」と書いてあるけれど、いまいちよくわからない。 一方で、私の文章は、「エモい」と評価をもらうことが多い。謎めいた形容詞で言い表される文章とは一体どういうことなのか? こんなことを書きながらも、自分自身、「あ、これはエモい」と思う作品に出合うことは多い。切なくて、妙に共感して、胸がざわつくあの感じ。単に甘美な言葉を羅列しただけでは、こんなに胸は動かされない。 私は、ひとつ仮説を持っている
note(ノート)
「追体験」がエモさを生み出す
「決して同じ体験をしたわけではないけれど、映像が頭に浮かび、追体験したような気分になる。この時、人は文章にエモさを感じるのではないか?」(同前) 嘉島さんは「追体験」をエモさのキーワードとして取り上げている。結論を先取りしてしまうと、その「追体験」を生み出すものが、固有名詞と日常性だと述べている。 「エモさ」と固有名詞を考える具体例として、燃え殻『ボクたちはみんな大人になれなかった』と田中康夫『なんとなく、クリスタル』を取り上げている。ただし、前者と後者の評価は異なる。 「普通、長く広く読まれようとするならば、宇多田ヒカルも『Automatic』という曲名も入れない方がいいだろう。(中略)でも、『Automatic』の1曲で、ボクと彼女の距離感の粒度が細かくなり、なんとなく、息が合わない2人の姿が頭に浮かぶ」(同前) 「この作品は文藝賞を受賞するほど、評価の高い作品ではあるけれど、エモくはない。 理由は2点ある。固有名詞が微細すぎる点と、日常感のなさだ」(同前) この二作品の対比から嘉島さんは、エモさの中身を「『固有名詞』×日常性」だと想定し、自らの書く文章にも取り入れているという。

きみも【卒業】してしまうのか|嘉島唯|note
note(ノート) 冒頭の「ハイボール」や大衆的な居酒屋「小松」が意識されたものだということがよくわかる。
「エモさ」は読者のなかにある
嘉島さんの書き方は、自信がないように読まれることもあるだろう。たとえば、マツビにはこんな文章がある。
「これら文章(引用者註・嘉島さんの文章)をエモいと判断するかしないかは、結局のところ読み手に委ねられるので、「これが絶対的な方法です」とは言えない。そして、「固有名詞×日常感」というやり方も、エモさを生むひとつの手段でしかない。違うやり方もある」(同前)
これはむしろ「エモい」ものの理解への自信があるのだろう。嘉島さんは「エモい」もの、「エモさ」が、読み手のものであることについて絶対的な自信を持っている。それでいて、「エモい文章の作り方」と題した一文を書くのだから、かなり挑戦的であるとも言える。 「追体験」を生み出す装置は、嘉島さんの一例で理解できる。嘉島さんは、「追体験」を固有名詞と日常性とに見事に分解してみせてくれた。ただ「追体験」それ自体が持つ意味については書かれていない。
「追体験」=「その場」「その時」を生きる
「追体験」とは、ある文章なり音楽なりに触れた瞬間、その作品の時間を生きることができることだと仮定してみたい。「エモさ」とは、共感を軸にしたものなのだ。 そう考えれば、「固有名詞」がキーワードになることもよくわかる。嘉島さんはローソンのエモさについて書いている。それは「その場所」を想起しやすいからだろう。ローソンのカラーリングや雰囲気がわからない人は、おそらくいまの日本には少ないだろうから。「ハイボール」も大衆的な居酒屋も、私たちを「その場・その時」に誘ってくれる。 『なんとなく、クリスタル』が、なんとなくエモくないのは、今の読者が「その場、その時」に生きることができないからだろう。
バスったものが「エモい」訳
バズったものは「エモい」傾向にあるように思う。鶏が先か卵が先か。それはどちらとも言えない。バズるものとエモいものが持つ「共感」という性質は同じだ。 SNSが持つ共有機能は、「エモさ」と相性が良い。共有した人は最初に発信された情報と同じ時・場所を生き、「エモさ」を感じ情報を共有する。RTは「エモさ」を感じたことを表す行動のひとつだ。 何年も前に書かれた文章が拡散され、唐突に目の前に現れることもある。これも「エモさ」故のもので、「エモさ」を感じ拡散されたものであるから、それがいつ・どこの言葉であっても、いま・ここにあるものとして、拡散される。過去のものとも気づかずに読めてしまうのは、「エモい」からだろう。
誰もが「みこともち」の時代
SNSの流行は、ほかの人の言葉を伝えることを非常に簡単にした。リツイートという形で、本当にそのまま伝えることを可能にしている。読むことと書くことによって恣意的な変換をすることなく、情報を伝えられるようになった。 誰もが「みこともち」になれる時代である。

「神道に現れた民族論理」(『折口信夫全集第三巻』)
いくつものキーワードが出てくる作品だが、おそらく「みこともち」を中心にそれぞれの理論が展開している。「日本人の物の考へ方が、永久性を持つ様になつたのは、勿論、文章が出来てからであるが、今日の處で、最も
明日はねぇぞ・崖っぷち学芸員志望の記録 このブログは折口信夫という民俗学者の全集を読むというまったくエモさの欠片もないコンテンツを提供している。折口自身にしても、具体例は省き、日本の古代を考えるという「エモさ」の対極にあるような人である。 だが、「エモさ」のようなあやふやなものを捉えようとするとき、折口の思考は役に立つらしい。嘉島さんの文章を読み、「エモさ」について考えてみたとき、そう思った。 私にとって、折口の文章は非常に「エモい」。