※以前別のブログで書いた文章をそのまま掲載しています。
まずは折口の文体(だと考えているもの)を挙げてみる。
「竹取物語のかぐや
姫の天の羽衣も、舶来種ではなく、天子をはじめ巫女たちも着用した物忌みの衣である」(355p)
これだけ読んでも何の事やら一向にわからない。だが、「水の女」(『折口信夫全集第二巻』p80-)を引いてみると、内容が理解できるようになる。
「神女の身に、羽衣も被るとするのは、伝承の推移だと思ふ。神女の手で、天の羽衣を着せ、脱がせられる神があつた。其神の威力を蒙つて、神女自身も神と見なされる。さうして神・神女を同格に観じて、神を稍忘れる様になる。さうなると、神女の、神に奉仕した為事も、神女自身の行為になる。天の羽衣の如きは、神の身についたものである」(同前98p)
「穢れも、荒行に似た苦しい禊ぎを経れば、除き去ることが出来、又天の羽衣を奉仕する水の女の、水に潜いて冷さに堪えたことを印象してゐるのである」(同前100p)
神が着て、そして後には巫女も着ることになる羽衣について述べているようだけれど、それは全く説明されない。「詳しくは『水の女』に述べておいた」とでも注記しておいてもらいたい。
だが、折口はそんなことはしてくれない。というよりも、折口にはできない。なぜなら、「水の女」の発表は昭和2・3年で、今日の「小栗外伝」の発表は大正15年だからである。
「水の女」を読み、いま「小栗外伝」を読み進めている自分は、折口には不可能だ、ととりあえず言っておきたい。もちろん、折口の頭のなかや大学での講義では、「天の羽衣」に関する理解が進んでいたのだろうと思う。それを「小栗外伝」では説明しなかったのか、それともまだ考えがまとまりきらず、来るべき「水の女」の執筆にあたり、一つの考えとなったのかはわからない。
どちらにせよ過程の省略が、折口の文体のひとつの特徴なのだろうと考えている。折口の著作を読み進めて、さっぱりわからない部分は、おそらくこの特徴の影響だと思う。それは自らの知識不足につながるのだけれど……。
学生時代、先生(複数人の民俗学者に習ったため、誰から聞いたのかが思い出せない)に聞いた折口のエピソードにこんな話がある。
授業中、折口に質問した学生は、逆に「君は○○を知っていますか?」と問われたという。知りませんと答えると、折口は「では私の言ったこともわからないでしょうね」と言ったそうだ。
詳細な部分も質問の内容も覚えていないけれど、この折口の対応に関する話(それこそ口頭伝承folkloreなのかもしれないけれど)は、自分にはインパクトがあったらしい。いま折口を読み直してみると、自分がその挿話の主人公である学生になったような気さえする。
なお、「小栗外伝」の本筋は「生御霊の分割」(365p)である。
「魂の離合は極めて自由なものと考へられて居り、一部の魂は肉身に従はないで、去留するものとし、又更に分離した魂が、めいめいある姿を持つこともあると考へて居た。此が荒霊が更に荒霊を持つ所以である」(366p)
このあたりが折口のこの作品における主張だと思われる。
