※以前別のブログで書いた文章をそのまま掲載しています。
述べられている内容が面白いことはもちろんだが、折口の民俗学への姿勢が垣間見できる作品だった。講演を筆記したもののため、わかりやすく感じる部分もある。
「我々の研究法は、経験を基調としたものであります。資料の採訪も、書斎の抜き書きも、皆、伝承の含む、ある昔の実感を誘う為に過ぎません。実感による人類史学と言ふべきものなのです」377p
「学問の研究の由つて来たる筋道と、発表の順序とだけは、厳重にはつきりさせて置くと言ふ、礼儀を思ふからであります。私どものしてゐる民俗学の発生的見地は、学者自身の研究発表の上にも、当然持せられるべきはずであります。(中略)如何様な価値と分量とを持つた論文にしても、其基礎の幾分をなしてゐる、未発表の研究を圧倒して了う権利さない訳なのです。私は常に、此だけは、新しい実感の学問の学徒としての、光明に充ちた態度と心得てゐるのであります」400p
「我々の研究法」、つまり「民俗学」(日本民俗学)の研究法について、「実感による人類史学」・「実感の学問」といっている。ここでは、折口の想いはわかるものの、その中身についてはほとんどわからない。何をもって、「実感の学問」と述べているのだろうか。この後は、「生活の古典」という言葉と併せて考えるべき言葉だろうと思う。
「生活の古典なるしきたり」(『折口信夫全集第二巻』所収「古代生活の研究」より)
「生活古典」(前掲書所収「貴種誕生と産湯の信仰と」より)
いま現前にある「生活」から過去にさかのぼっていくその方法をもって、「実感の学問」と述べているのではないかと考えている。
ただ結論は、もう少し折口の著作から「生活古典」や「実感の学問」という言葉を拾ってみたあとでも遅くないだろう。
そろそろ第二巻が終わる。第三巻も引き続き『古代研究』の民俗学篇。書き抜きの日々がしばらく続くだろう。