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「民俗学」(『折口信夫全集 第十五巻』p1-)

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数年前までひたすら『折口信夫全集』を読むという、誰のためでもない自分のための苦行をブログの記事にしていました。いろいろ思うところありまして再開することにしました。

「民俗学は、従来の好事的享楽、或は好古的採集を出発点として、漸く無形抽象的なものに傾いて行つた蒐集物の上に、単に奇怪であり、驚異であるといふ外に、なほある徹底した理論を見出さうとする希望が、当然にして起り、或は達成した学問であり、又まだその過程にある処の方法でもある」

『折口信夫全集 第十五巻』p1

折口は「徹底した理論」を見出すことが、民俗学においても可能であると言っている。彼自身が提唱したさまざまな分析概念のことを考えれば、それを重要視していたと言ってもよいと思う。

「民俗が民俗である事のためには、周期的なることを要するのは、旧時の宗教が、成立時代の宗教と性質を異にしてゐるからの事である。周期的に出現する神に対する誓約を履行する事によつて暦日が考へられ、祭礼を行ふやうになり、祭事を完全に経過する方法としての儀礼や伝承詞章や禁忌などが、すべての伝承の基となる。同時に、古代社会に於ける急激な変化と社会人の頑固な保守とが、伝承を不具ならしめる。そこに民間に伝承せられる精神現象の雑多化と豊満な忘却とを齎した。さうして残り具はつたものが民俗でもあり、民間伝承である。これを対象とする学問が民俗学であり、又は民間伝承学と称せられるものである」

『折口信夫全集 第十五巻』p1-2

「民間伝承を採訪し、組織するための便宜上、種目を立て、凡そこれを五つの部類に分けて置くことにする。即、周期伝承・階級伝承・造形伝承・行動伝承、並びに言語伝承がそれである」

『折口信夫全集 第十五巻』p5

「周期伝承といふのは、その著しく固定した点を主として名づけたまでであつて、民間伝承自身、周期を意味してゐないものはない。この周期伝承こそ、すべての民間伝承を指導するものと謂つてさしつかへない」

『折口信夫全集 第十五巻』p6

折口信夫は「周期伝承」をほかの伝承より上位においているらしい。上位という言い方は適当ではないかもしれないが、伝承の本質的な特徴として周期的に繰り返されることをあげている。

久々の抜書でしたが、すごく時間がかかりますね。当然、読書の速度が遅くなる。ただ折口を読むには、この歩くような速度でちょうどいいと思う。自動車やバイク、電車、バスなど、あらゆる交通機関での移動では、その地域の暮らしの文化を見つけることが難しいことと同じように。

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