
論文執筆のためのメモ書きのように思われる。キーワードが書かれている部分と、文章になっている部分がある。 たとえば、前者であればこんな形に記されている。
「魂があると、出来るからだ。からだがあると、這入る魂」(454p)
これは「霊魂の話」 (『折口信夫全集第三巻』p260-)で論じられたものだ。なお、発表は「霊魂の話」の方が約半年早い。理論の構築は同時期だったと見ていいだろう。

「霊魂の話」(『折口信夫全集第三巻』p260-)
「たま」と「たましい」との違い、つまりは前後関係を述べている。「日本の「神」は、昔の言葉で表せば、たまと称すべきものであつた。それが、いつか「神」と翻訳せられて来た。だから、たまで残つて居るものもあり
明日はねぇぞ・崖っぷち学芸員志望の記録 後者の例として、気になった一文を取り上げる。
「『やす』といふ語根は、神の降り留る義で、八十といふ語には、その連想が伴ふのである。其から、神事の人々の數を數へるのに使ふ。崇神紀の八十伴緒・八十物部・八十神などが古い。神の来ている間の、接待者を言ふ様になつては、痩すとなり、やせうからの転のせがれが、やつがれとも、せがれともなる」(469p)
前者との違いは明らかだが、これは前者から後者に発展していくものなのか?
それとも、また違った解釈が可能なのか? 計画中の作品が公開されていることは、折口の術語形成の理解にとって重要なのかもしれない。いずれ読み直さなくてはいけない作品だと考えている。