
「天地の大御神たち、大和の大國御霊/天地間の神々様、其から、大和の國の總地主の神が」(257p)
「大國御霊」、いまの総社の考えにもつながるものらしい。折口は、総地主の神と訳している。この歌の内容からすれば、大國御霊は天地の大御神たちと並列される存在、つまり天地の神以外の神であるらしい。それに「地主」という言葉を当てた折口の考えはどこにあるのだろう。
武蔵国の大國魂神社に代表される国の有力な神々を祀った総社制祭祀において祀られる神は、土地の神(精霊)だと考えてもいいのだろうか。そうだとすれば、天皇/国々の関係における祭祀の形式を入れ子のように国/諸地域に当てはめたものだと考えられるのかもしれない。国々は天皇に国御霊を奉る、国内の各地域は国府に近在する総社に御霊を奉る。
折口は、天皇/国の関係は「大嘗祭の本義」で述べられていた。

「大嘗祭の本義」(『折口信夫全集第三巻』p174-)
第三巻も半ばにきて、折口の術語オンパレードの感がある。ちなみに、第四巻からは万葉集なので、それはそれでしんどいように思う。まずは「まつり」の意味の変遷を述べている。「まつるといふ語には服従の意味がある
明日はねぇぞ
上記の記事には記録していないが、諸国から稲穂を奉ることは、国々の魂を奉ることであり、それが天皇の魂を強化すると述べている(『折口信夫全集 第三巻』184p)。同様のことを「咒詞及び祝詞」(『折口信夫全集 第三巻』所収)でも述べていた。「古代人の思考の基礎」(同前所収)では、国風の歌を取り上げて、稲穂と同様のものだとしている。
折口の萬葉の歌への理解と『古代研究』で展開されている各種の理論を重ねて読み取ることの意味を感じる。