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「カミーユ・アンロ 蛇を踏む」@東京オペラシティアートギャラリー(時期不明)

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「あなたは何を展示すればいいと思う?」

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本展覧会で取り上げている作家、カミーユ・アンロがキュレーターに問いかけた言葉です。キュレーター冥利につきる言葉なのではないかと思います。こういうやりとりの積み重ねによって制作された素敵な展覧会でした。

https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fwww.operacity.jp%2Fag%2Fexh226%2Fwww.operacity.jp  

まだ福島県内小旅行&博物館放浪記が終わっていないのですが、先週末に観覧してきた本展のことを先に書こうと思います。当日、会場につくとちょうどキュレーターの野村しのぶ氏のギャラリートークがはじまりました。せっかくだから、と展示解説をお伺いしてきました。作品群は大きく四つに分かれていて、〈革命家でありながら、花を愛することは可能か〉と〈アイデンティティ・クライシス〉は複数の作品をまとめたもの、《偉大なる疲労》は映像作品、《青い狐》はインスタレーション作品です。   ※本展は撮影可能、個人利用におけるウェブやSNSでの公開可能とのことです。   1 〈革命家でありながら、花を愛することは可能か〉

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  この作品は作者が読んだ本をもとに、その作品から受けた印象を生け花にしたものだそうです。日本で開催される展示にあわせて、野村氏が日本人作家の本のリストを作成し、その中から作者が選んで読み、解釈し、作品にしたとのこと。  

花を生ける花器は、作者が描いた絵をもとに特注したもので、生け花については、いけばな草月流によるものです。草月流の方からの提案も柔軟に取り入れて、作品制作が行われたそうです。冒頭の言葉もそうですが、自分の感覚だけでなく、関係者の感覚についても非常に大事にする作者のように思います。  

一つひとつの作品のタイトルは、本の題名と著者の名前で構成されており、キャプションにはその作品から抜き出したテキストが一緒に付されています。野村氏はもっとシンプルなキャプションにし、引用文についてはハンドアウトに掲載することを提案したそうですが、作者の意図によりこの形になったそうです。  

本をどう読むか。読み、解釈し、作品にするか。  

作者のカミーユ・アンロは、自らの作品が引用の織物であることを非常に意識しているように思います。野村氏の言葉を借りれば、謙虚さと自分が受けた情報に対するリスペクト。受け取った情報を内在化させる。単なる情報操作ではない」ということになろうかと思います。  

わたしは作者が選んだ作品をほとんど読んだことがなかったので、実際の作品と作者の受けた印象の差を感じることはできませんでした。これを機会に読んでみるのもいいかな、と思っています。  

2 〈アイデンティティ・クライシス〉

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  絵画作品群です。わたし、美術はさっぱりでして、なかなか感想すらも難しいのですが・・・・・・。 野村氏の展示解説で取り上げられていた「どれにしよう」という作品は面白かったです。つるされた洋服に顔が描かれているのですが、服を着替えるように相手によって表情や感情も変わる、ということを表現した作品です。 アイデンティティ自体が社会との関わりのなかで創作されるものであり、複数持ちうるものであること、それに自身を合わせる状況、といった思索が表れています 先に紹介した展覧会のウェブサイトでは、このように表現されていました。  

3 《偉大なる疲労》・《青い狐》

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カミーユ・アンロは、日本では映像作品がよく知られているそうです。この作品は、作者がスミソニアン博物館の特別研究員として行った調査をもとに造られた作品です。わたしはよくわかりませんが、何らかの賞も得ているようです。 野村氏の話によれば、作者は特別研究員になった時、スミソニアン博物館のキュレーターに「テーマを絞った方が良い」とアドバイスを受けたそうです。ただ作者はそうせずに収集分類をしなければならない私たち人間の分類することへの欲望を展示したのが、《青い狐》だそうです。一方で、各地の神話における世界の起源を主題に、(おそらく)スミソニアンの各博物館の内部で撮影した映像を用いて、制作された映像が《偉大なる疲労》です。いずれも作者の「世界とはどういうものなのか」という純粋な問いかけに自ら答える形の作品になっています。 野村氏は、「《青い狐》は誕生、進化、限界を迎える。消滅に向かう世界を、《偉大なる疲労》は、世界はAでもあり、Bでもあるという世界認識を示す」と解説していました。学問として整えられたものと混沌、という表現もされていたかと思います。  

博物館といえば、まさに分類癖の権化。タグをつけて分類するところからすべてが始まるような施設です。分野ごとに細分化し、収蔵庫に収められた資料を、一度その枠組みから外して、作者なりに再構成する・・・・・・「解釈する」ということが、一種の革命であり、創造的行為であるということを改めて思い出させてくれる作品でした。    

わたしは普段は歴史系の博物館ばかりめぐっていて、あまり美術館には行きません。この展覧会はたまたま知り合いの方が見に行ったというツイートを見て、知ったものです。わたしは今まで美術やアートに興味がないから、美術館は好きではないのだろう、と思っていました。この展覧会をみて、そうではないということに気がつきました。   「わからない」から面白くないんです、きっと。  

今後は、美術館に行くときは、展示解説や音声ガイドを利用しようと思います。翻って、歴史系の博物館が好きじゃない/行ったことないという人に対しては、観る人それぞれの理解の助けになるようなことをしようと思いました。

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