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民俗学の目的とはなにか:折口信夫「民俗学の導き」①(『折口信夫全集 ノート編 第七巻』p65-)

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この講演は昭和11年から14年までの間、國學院大學の郷土研究会で行われた講演のうちのひとつである。最初に総論(「一 民俗学総論」)があるが、ここで折口は民俗学という学問の目的について述べている。

「今日はフォークロアを研究する人の中に、プロレタリア運動者があれば、異なる目的に進むかもしれないから、よほど考えねばならぬのである」

『折口信夫全集 ノート編 第七巻』68p

ここでは時代を読み込む必要はある。プロレタリア運動を挙げているが、これはあくまで一例であると思う。折口が理想とするのは、学問のための学問だ。

「帝国大学でも、学問に対する根本の理解がないために、そこに対する根底の意志が働いておらず、お上のためとはどうしても言えぬ点ができる。だからやはり学問は自由だ、学問のために学問をする、という考えが働いてくる。このことは平凡で、人によっては侮辱に値することかもしれぬが、私としてはそうでなくてはならぬ」

『折口信夫全集 ノート編 第七巻』p69-70

学問のための学問。平凡と言いながら、「そうでなくてはならぬ」としている。プロレタリアのためでもない、お上のためでもない学問を折口は希求している。一方で、学問のためにある学問の空虚さも説いている。

「学問は、正しいものに向うてゆかねばならぬ。そのためにこそ、倫理学をはじめ、もろもろの実践のものもあるのだ。学問は学問のためにある、というのは空想にすぎぬ。正しい要求をもった学者の学問が、いちばんよいということになる。そうでなければ、学問はあまりに情ない」

『折口信夫全集 ノート編 第七巻』69p

学問のための学問でありたい。しかしそれは「空想」であり、「正しい要求をもった学者の学問」でなければ「情ない」という。この理想の学問は、果たしてどんなものなのか。折口が理想とする民俗学という学問について、次のように述べている。

「フォークロア自身がクラシックなものだから、それを組織して編み出した学問もクラシックである。だからフォークロア自身にも、おのずから方向は決まっている。ある秩序をめざしている。秩序という語が悪ければ、ある整備した過去に向いていると言うてよい。どうしてもわれわれは、しっかり腹を据えて学問をし、正しい指導力をもたねばならぬ」

『折口信夫全集 ノート編 第七巻』p72-73

理想の学問は「正しい指導力」を持っている。これは先の引用を鑑みれば、「正しい要求をもった学者の学問」による「実践」である。章の終わりに民俗学の持つ「正しい指導力」について述べている。繰り返しになるが、それは決して「プロレタリア」のためでも、「お上」のためでもない。

「この学問(引用者注:民俗学)が現在の生活の規範となるには、あまりに無力だからである。道楽のようなものである。宗教でもなければ、道徳でもなく、生活の古典にすぎぬ。門松のこと、七夕の竹のことなど、いくら説明したところで、現在の生活に対してなんにもならぬ。つまり、われわれがもっとよく考えて、現在の学問として今の世の中の現象を見、それを解説する学問として、もっと力をもたねばならぬ。するとこの学問がその副産物として指導力をもってくるであろう」

『折口信夫全集 ノート編 第七巻』73p

「生活の古典」は、「クラシック」という言葉の言い換えだ。「道徳」というのも独特ではあるが、こちらは「秩序」と関係する語だと考えられる。ある時点において、ある範囲の人々が共通して持っていた民俗、それはその集団の「秩序」として機能していた、と理解していたものだと思われる。折口は、その秩序を失ったものを「生活の古典にすぎぬ」と述べている。同じ講演の別の部分では、「秩序」となっているものを「生命」があるものと表現している(この「生命」について、また別の機会に述べる)。ここではまず折口の理想の民俗学を追いかけよう。先の引用に続く一文である。

「この力は、今では誰ももっておらぬ。これは、邪道だと言う人もあるかもしれぬが、指導力を用意せぬ学問は空虚である。社会科学であるからには、自然科学とは違う。これから先の生活に対して、指導力をもたねばならぬ。現在の生活を説明するとともに、未来を説明することができぬ学問では仕方ない」

『折口信夫全集 ノート編 第七巻』73p

過去の「秩序」の残存である「生活の古典」から、現在の生活を説明する。世相解説では足りない。折口はその先を見据えていた。過去を見つめ、現在を説明し、「未来を説明」できる学問を目指していた。少なくとも、折口が理想とした民俗学は、プロレタリア運動のためでも、お上のためでもない、学問のための学問でありながら、その結果、「副産物」として、現在だけでなく未来をも説明できる学問であった。

はたして、自分はこの理想の民俗学に近づけているのだろうか。

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