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映画『ジョーカー』感想:信頼できないジョーカーの物語/読み取れないアーサーの物語(時期不明)

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いま、話題の映画『ジョーカー』を観てきました。※ネタバレも含みますので、ご覧になっていない方はご覧にならないでください。

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 事前にバッドマンのライバルらしいということは知っていましたが、バッドマンを一度も観たことがありませんでした。というか、いまも観たことがありません。

「さて、楽しめるのかな・・・・・・」と思いましたが、結論からいうとまったく無用な心配でした。バッドマンの知識をまったく知らなくても楽しめました。

悪役がなぜ悪役になったのか。その発生を描く物語と言えると思います。

主人公は、道化師のアーサー・フレック。仕事はうまく行かず、世間は不景気。上流階級と下流階級の断絶と、世間全体の不満が高まっているニューヨークで、善良な一人の男がジョーカーになっていく様子が描かれています。

アーサーは年老いた母の面倒を見ながら、コメディアンを夢見ながらうまく行かない道化の仕事を続けていますが、あるとき、道化師仲間から譲り受けた拳銃で人を撃ち殺してしまいます。

いわゆる「勝ち組」である若者三人を殺したピエロが、大きな社会現象へと広がっていくとともに、彼のなかの狂気も大きく膨らんでいきます。

何事もうまくいかず、誰にも認められないことが、もともとあった精神疾患を悪化させていく描写の裏には、社会情勢の悪化があるように描かれていました。

視点人物であるアーサーの精神疾患が明らかにされた段階で、すべての輪郭が曖昧になっていきます。おそらく、ここがこの作品のキモですね。

その後、アーサーは不満渦巻く下流の、普通の人々のダークヒーローとなっていきます。ひょんなことから人気司会者のバラエティ番組に招かれ、生放送の最中、アーサーはその人気司会者を殺します。生中継された映像は、市民を熱狂させ、大きな暴動となっていきます。

当然、アーサーは警察に捕まることになりますが、護送されている最中にパトカーが暴動に巻き込まれて、けがをしながらもアーサーのようなピエロのお面をつけた人たちによって車両から運び出され、立ち上がります。

非常に象徴的なシーンで、多くの人がアーサーを支持し、熱狂的に見つめ、彼は恍惚とした表情でダンスを踊ります。

もっとも盛り上がりを見せるシーンであり、暴動を誘うような表現が一部で問題にもなっているようですが・・・・・・。さて。

わたしにはどうにもご都合主義なように思われます。薄っぺらいというのではありません。この暴動自体、信用に足るものではないだろうということです。

誰にも認められなかった自分が、熱狂的な信者に担ぎ上げられ、誰もが自分を見つめる状況・・・・・・。これはアーサーがどんなに望んでも手に入れられなかった状況です。その状況を、誰からも認められる司会者を殺すことで成し遂げる。都合が良すぎやしませんか? 監督あるいは作者にとってではありません。アーサーにとって、です。

アーサーの精神病が、悲劇的な形で表現された時点で、私たちはこの物語自体の強度を疑ってもみるべきだと思います。

この作品は暴動を誘うこと、肯定することに主眼が置かれているのではないと思うのは、この構造がゆえです。構造上、暴動がひとりの悲しい男の妄想に過ぎないことが示唆されているのですから。

むしろ社会的な断絶と精神を病んだ人が生きていくことのつらさ、そして、一時期「無敵の人」という言葉で呼ばれていたような、何も失うものがなくなった人の悲しさと、そこへの批判を読み取っていくことのできる作品でした。

とはいえ、アーサーに哀れみの視線を向けた時点で、私たちは作中の上流階級の人たちと同様に、自分には関係のない対岸の火事としてアーサーを苦しめている社会的な構造に取り込まれてしまうようにも思います。そして、その社会構造はジョーカーと化したアーサーと暴徒によって、めちゃくちゃに壊されてしまうのですが。

私たちはどうしたら、アーサーの物語を、彼の妄想であるジョーカーに邪魔されることなく、理解することができるのでしょうか。わたしはこの作品を、ジョーカーの物語ではなく、アーサーの物語として理解してみたいと考えています。

もう一度、観てみたいと思った作品でした。

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