
先々週の平日、落合陽一の個展を見てきました。
・資料 ほぼすべて一次資料。アートですからね。イルカの声を視覚化した作品の後ろには、イルカの映像が流れていたり、音声が流れていたり……。展示を補完するという意味では、二次資料なのかも知れないし、メディアの芸術の場合、それらの仕組みを含めて作品とすべきなのかも知れない。
キャプションは正直、ほぼ何書いているかわからない。これは文脈や専門用語がわからないからだと思う。が、そもそも落合陽一の言い回し自体がレトリカルすぎる。マニアックなことをいうと、キャプションのポイント小さかった。メインの客層や伝えたい相手は若年層だろうから、細かくてもいいのかもしれないと思いつつ、メディアアートなるものの門戸としては広い方がいいだろうと思う。
・構成 章分けや展開については、何とも言えない。ストーリーは落合陽一という存在自体が担っているような気がする。たぶん観光と同じで、SNSやテレビ、雑誌等に露出する落合陽一氏自身が、彼の展示のストーリーになっている。アーティストって、メディアに限らず、音楽でも何でもそうだと思う。
「はじめに」にあたる一文の最後には次のような文言があった。
「落合陽一は作家性の中で、その幽玄や山紫水明、侘寂に見られるような非言語的感覚からビジュアルモチーフとしての日本的な古典コンテクストを一旦〈漂白〉し、日本古来のビジュアル表現を継承することなく、それでいて工業社会以後も日本的であるものを目指そうとしている。それがここに見られる、〈侘び寂びた風景〉だ」
日本の古典的な侘びや寂びといった「感覚」にまとわりついた文脈をはぎとり、再構成しようということらしい。 ・広報 落合陽一自身が最大の広告塔だ ろう。SNSでの拡散はもちろん意識の上にあるはずだ。なにより作品自体がSNS向きなようにも思う。
・教育普及 事業実施はない。現代美術(本展示を含めていいのか否かはわからない)の教育普及事業って、何をするんでしょうね……。一度参加してみたいようにも思う。
ここからは気になった作品を。 まずは、「Morpho Scenery」。これが断トツで面白かった。


これ、すごく不思議です。私たちが目にする風景を、向こう側から見た風景が目の前に広がります。写真の「止まれ」と「スクールゾーン」の表記に注目してください。向こう側から見た風景を見ることができます。
仕組みはどうなっているんでしょうか。光の反射を目の前にあるスクリーンでコントロールして、映し出しているのだと思います。が、とても不思議な光景でした。 「言語と現象の枠組みを超え、風景を変換する」という一文が「はじめに」にありましたが、なるほどこういうことか、と。この展示は、私たちの身体機能(ここでは目)を問うてみることを促しているように思います。 次に「音の形、伝達、視覚的再構成」。例のイルカのやつです。


水中で録音したイルカの声をスピーカーから出力、音の振動により水面をふるわせ、光線を当てる、という作品です。 イルカの声→水中の振動→録音→出力→水中の振動→光の波 という変換を行っています。この変換によって、私たちはイルカの鳴き声を「見る」ことが可能になる。
これは視覚に関する展示ですね。見ることのできる音。

最後に、「Deep Wear」。これは加藤奈津実・大曽根宏幸・佐藤大哲・松村直哉・落合陽一による合作です。

「特定のブランドデザインをコンピューターが学習し、服飾パタンナーはパターンを作成、新しい服飾デザインとして完成させる」ものだそうです。 機械学習によりデザイン提案をしてくれる、ということのようです。これ、ウェブの広告に似ているような気がします。私たちの検索履歴や傾向を分析して、適切な広告を提案する、と。ZOZOスーツも、そのうち、私たちのデータを分析して、おすすめの服を提案してくれることでしょう。おそらく、この展示はその先の未来にあるように思います。
ある意味、デザイナーからブランドを剥奪し、機械学習によってブランドそれ自体が自律する流れを作り出すのではないでしょうか。そのとき、私たちは消費者でしかいられなくなるのかもしれない。 落合陽一は、歴史が好きなんだろうと思うことがあります。好きというか、研究者の性質上、どんな学問であっても歴史を避けては通れない。研究史、というやつです。
「古典コンテクストの〈漂白〉」は、歴史を踏まえたものでしょう。そうしなければ、「漂白」はありえない。 折口信夫は『古代研究』のなかで、当時の神道学者の近世国学というコンテクストを持った解釈を踏まえた上で、それとは違う解釈を「新国学」という形で示そうとしていました。その姿勢は通ずるものがあるように思う。
「幽玄」や「山紫水明」、「侘寂」という言葉にこびりついた解釈の歴史から、これらの概念を解き放ち、未来に続く形で再構築すること。それが落合陽一の目指すところなのかと思います。
これは伝統を再解釈する試みとは、少し違うように感じます。再認識、再評価をするときに、良い部分だけに目を向けることが多いように思います。 民俗に関していえば、いままでのコンテクストから離れた文脈で民俗事象が扱われることがあります。それらはしばしば観光の現場などで見られ、一時期、民俗学では「フォークロリズム」という術語を関して、しきりに分析の対象としました。ですが、多くのフォークロリズム的事象は、コンテクストのすべてを破棄した訳ではなかった。(主に経済的)戦略の上で伝承されるものがあった。だからこそ、伝承を扱う日本民俗学の研究対象になったのかもしれません。
少なくとも、落合陽一が行う〈漂白〉はフォークロリズム的な方法によるものではないように思います。意識的に文脈を切断し、再解釈を行った上で、再度提示する。新「幽玄」や新「山紫水明」、新「侘寂」を生み出そうとしている。それは、「幽玄」2.0や「山紫水明」2.0、「侘寂」2.0など、1.0の続きにあるもの、今までの概念の流れの先に続くものではないはずです。