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「霊魂の話」(『折口信夫全集第三巻』p260-) 2018.05.01 23:00

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「たま」と「たましい」との違い、つまりは前後関係を述べている。  

「日本の「神」は、昔の言葉で表せば、たまと称すべきものであつた。それが、いつか「神」と翻訳せられて来た。だから、たまで残つて居るものもあり、書物の上には、そこに矛盾が感じられるので、或時はたまとして扱はれ、或所では、神として扱はれて居るのである。
たまは抽象的なもので、時あつて姿を表すものと考へたのが、古い信仰の様である。其が神となり、其に、ものと称するものが考へられる様にもなつた。即、たまに善悪の二方面かまあると考へるやうになつて、人間から見ての、善い部分が「神」になり、邪悪な方面が「もの」として考へられる様になつたのであるが、猶、習慣としては、たまといふ語も残つたのである」(261p)

中盤には「かひ」に関する考え、閉ざされたものの中に宿り(「ある」)、しかる後に殻を破り出現すること(「なる」)について述べている。  

「たまが其(注・石)中で成長すると信じたので、成長して、或時期が来ると、前のうつぼ・たまご・ひさごの場合の様に、やはり石が割れて神が出て来ると考へた」(p270-271)

この考えを折口は人にも当てはめている。  

「容れ物があつて、たまがよつて来る。さうして、人が出来、神が出来る、と考へたのであつた」(275p)

  おそらく、「たま」の理論は、折口のほかの理論に接続されている。けれども、どの術語とどのように結びついているのか、ほとんどわからない。とりあえず、彼方から寄り来たる神には接続されるらしい。まだまだ読む必要がある。

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