
この追い書きには、折口の姿勢だけではなく、柳田の仕事あるいは当時の民俗学研究に対する考えも記されている。
「私は、此学問の草分けに、かうした人(註・柳田國男)を得た、日本の民俗学のさいさきのよかつた事を思ふ。さうして、不肖ながら、其直門としえ、此新興の学徒の座末に列する事の出来た光栄と、不思議とさへ考へることがある。今では、先生の益倦まぬ精勤が、我々の及ばぬ處までも、段々進んで行つて居られ、新しく門下に参じる人たちも、殖えてゆく一方である。或は心理学的に、社会学的に、日々新しい研究法を加へて行かれる姿がある。発足点から知つた私自身は、一次・二次のものに、固執してゐるかも知れない。使従の中、最愚鈍な者の伝へた教義が、私の持する民俗学態度かもしれない」(p495-497)
折口は自らの態度が初期の段階の民俗学研究によるものだと考えているらしい。それより先に進んだもの、つまり三次・四次にあたるような研究は、「心理学的に、社会学的に」行われるものであると考えられる。実際にどんな論者がどんなことを論じていたのか。当時の研究雑誌にあたれば、明らかになるだろうと思う。
折口の「一次・二次」の民俗学研究による成果が『古代研究』という作品である。折口自身はこの作品群をもって何を訴えたのか。それは、「新しい國學」だった。