ホイールに錆びが出て、シートには補修跡、前かごの曲がったボロボロのスーパーカブにまたがる。この非力で頑丈な原付バイクは、私より五歳年下だ。湘南海岸に吹きつける潮風にさらされながら、通勤につき合ってくれている。
私のアパートは、海沿いにある築40年以上の建物だ。駐輪場には、やはり錆びついた折りたたみ式の小さな自転車が停まっている。サーフボードを持ち運ぶためのキャリアが取り付けられている。休日になると、この自転車のかわりに、大きな水の入ったバケツが置かれている。きっとサーフィンをやる人が住んでいるのだろう。私は彼(彼女)と会ったことがない。
部屋の鍵を開けるとき、隣の部屋のテレビの音が聞こえてくる。換気扇のダクトを通って漏れ聞こえてくる音や声は、なんとなく物悲しい。
レッドウィング、ティンバーランド、マーチン、そしてよくわからないメーカーのスニーカーとクロックスもどき。乱雑である。すると適当に脱ぎ散らかしたくもなる。
すぐにフィルターにスーパーで安売りしているあまり味や香りのしない豆を入れ、コーヒーメーカーにセットする。ゴポゴポいっている間に着替えたら、あとは本を読むだけだけだ。
読みはじめる時間はまちまちだ。九時だったり、十一時だったりする。だが、止める時間だけは決めている。祖母の物が満ち満ちたアパートを片づけた時にもらってきた裏蓋のないセイコーの掛け時計を眺め、一時になったらやめる。
その間に、『折口信夫全集』を読み、このブログの記事を書いている。零時前、つまりその日のうちに書きたいとは思っているけれど、実際にはそうできないときもある。そんなときは、投稿日時だけ前日にするときもある。我ながら怠惰だ。
怠惰だけれど、この一ヶ月の間、毎日文章を書いてきた。日々の成果は、ノートの一枚の厚さにも満たないくらい薄いものかもしれない。だが、その一枚に満たない文章のために、無印良品のA6ノート数枚分の抜き書きをしている。
「取りて読め。筆を執れ。そして革命は起こった」
この一文は、佐々木中の『切り取れ、あの祈る手を』という本に書かれていた言葉である。内容はほとんど覚えていない。当時の自分には、抜き書きの習慣がなかった。本は実家の本棚にあるからこの場で確かめようもない。ただこの言葉については記憶している。
読むという行為には、解釈がある。ひとつの文章を読めば、十人十色、様々な解釈が生まれる。読むという創造的な営みの先に、書くことがある。それは、文章を読み、書き、変える試み、つまり革命なのだ。
私は物覚えが悪い。前の一文は、ほとんどが創作で、佐々木中が言ったことではないかもしれない。だが、これもひとつの読み、書くという行為による革命なのだ、と言い訳しておきたい。
読むことと書くことは、ひとつの営みのなかにある。ブログをはじめて、気づいたことはこれだけだ。