ブログ

「田遊び祭りの概念」(『折口信夫全集第三巻』p378-) 2018.05.08 22:36

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

※以前別のブログで書いた文章をそのまま掲載しています。

後半は演劇論をまとめているらしい。この作品は「田に関する演芸」、すなわち田遊びに関する作品だ。

「日本には、田に関する演芸が、略三種類ある。第一は、田遊びである。此行事は、余程、古くから行はれたものと思ふ。次は田舞ひで、此と、奈良朝以前既にあつた。第三は、平安朝の末に見え出して、鎌倉に栄え、室町に復活した田楽である」(378p)

類似した複数の民俗事象を取り上げるとき、折口は必ずその前後関係を論ずる。折口だけではない。柳田國男もそうだ。たとえば柳田は、旅行の三段階の変遷を唱えている。その他、民俗学者を取り上げてみても、同じく前後関係を論じるはずだ。折口は田の芸術をどのような変遷として捉えたのか。

「五月田植えの際に行はれた、田遊び(歌舞)が、平安期の末に、咒師出の法體芸人の手に移つてーー當時の民俗芸術の影響を受けてーー変化したものーー或は合體したと見てもいいーー演芸化したものが、田楽であると見ていい」(380p)

「田遊びのあそぶは、古い用語例では、鎮魂を行ふ為の舞踊を言うたのだが、其後、意味が段々変つて、主としては、楽器を用ゐるものに就いて言ふ様になり、後には、野山に狩りをする事をまで、此語で言ふ様になつたが、元来は、鎮魂の為の舞踊を意味した語で、田遊びとはとりも直さず、田の鎮魂術や行ふ事だつたのである」(p381-382)

田遊びと田楽の前後関係は明らかだ。最初に取り上げた文章を読むに、田遊び→田舞→田楽という変遷を想定しているらしい。だが、折口は単純な変化とは考えていない。田遊びが指す内容のなかに、意味が拡大していく過程を読みとっている。  

明確に述べられている訳ではないが、田遊びが指す意味内容の拡大とともに、田舞が発生したと考えているらしい。つまり、田遊びという言葉が指す範囲が広まるにつれ、元々田遊びが示していた狭義の意味を田舞いが示すようになったということを示しているのだ。それらが演芸化すると田楽になる。  

私は田楽を一度しか見たことがないので、中身の理解は難しい。ここでは、田遊びに関する記述を追いかけたい。

「田遊びは、初春の行事であつたのが、元の形である。其が、五月に繰り返され、更に七月にも行はれる様になつて、愈盛んになつあ。五月田植ゑの時に移し行はれたのは、如何にも、実感に適するからであつた。七月に行はれる様になつたのは、稲の穂の出る時であり、また、不安の伴ふ時期であつたからだと思ふ。要するに、初春の行事だった、春田打ちの延長と見られるのである」(389p)

春田打ちは、稲作を行う過程を再現することで、その年の豊作を祈る行事だ。秋田県南部では、雪中田植えなどと言っている。再現したものが現実になるという呪いは、予祝と呼ばれている。  

私が見たことのある事例では、小正月に春田打ちを行っていた。雪の積もった田に、注連縄を張り場を作る。そこに稻藁と豆の殻で作った、稲穂を田植えする。それを豊作のための行事だと言っている。  

実際の事例を見れば、「田の鎮魂術」だといった意味もわかる。田を言祝ぎ、はらませるということを言っているのだろう。「鎮魂」という言葉は、もう少し丁寧に折口の考えをたどってもいいのかもしれないが、大きく誤解はしていないはずだ。  

日本海沿岸で広く行われている鳥追いも同じだ。農作物を荒らす鳥を追い払うことによって、実りを願う。折口のいう「五月」「七月」の田遊びのほかに、まだまだ行われているものがある。折口の考えに沿えば、稲につく害虫を払いやる「虫送り」ですら、春田打ちの延長線上だ。   具体例で考えていくと、折口の話はかなりわかりやすくなるようだ。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加