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「河童の話」(『折口信夫全集第三巻』p288-) 2018.05.04 20:23

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前文に折口の民俗学に対する姿勢が書き込まれている。  

「私はなるべく、認識不十分な他人の記録の奇事異聞を利用する前に、當時の實感を印象する自分の採訪帳を資料とする事が、民俗の學問の上に最大切な態度であると思ふ故に、壹岐及びその近島の傳承を中心として、この研究の概要を書く、一つの試みをもくろんだのである」(288p)

学生の頃、とある地域の学会で発表したとき、「その伝承はいまどうなっているの?」と聴かれたことを思い出す。   それはともかく、「當時の實感を印象する自分の採訪帳を資料と」した折口は、どんなことを述べたのか。

「一年の中ある時の外、使はなかつた神秘の水のあつた事を、別の機会に書きたいと思うてゐる。神聖な淡水が、海から地下を抜けて、信仰行事の日の為に、湧き出るのだと思うてゐたらしいのである」(261p)

この神秘の水の信仰のため「水の精霊は、何処へでも通ふものと考へたのである」(292p)と述べている。若水のことだろう、これは別の作品で理論化されている。   結論だけいうと、折口は河童を水神の零落した姿と考えている。椀貸し伝承と頭の皿に注目しつつ、次のように述べる。

「河童とまで落ちぶれない神の昔から、皿を頂いてゐると言ふ伝へがあつて、其で、水の神がさう言ふ器具を持つて居る、との考えが導かれたのだらう」(309p)

実例を持ち合わせないので、これは本当によくわからない。折口の口調もはっきりしない。自信がないのかもしれない。

「河童を通して見ると、わが國の水の神の概念は、古くから乱れてゐた。遠い海から来る善神であるのか、土地の精霊なのか、区別が甚朧げである。神と、其に反抗する精霊とは、明らかに分れてゐる。にも拘らず、神の所作を精霊の上に移し、精霊であつたものを、何時の間にか、神として扱うてゐる」(310p)

神と精霊の征服/降服の関係を問うている。八幡神に関する理論とどちらが先に生まれたのか。その差は二ヶ月だ。折口の「當時の實感」は河童の伝承についてだろうから、河童という民俗事象から抽出した理論をほかの神や精霊にも当てはめようとしたのだろうか。  

ある民俗事象の分析によって導き出し た術語をもって、ほかの民俗事象を理解しようとする。こう仮定してみると、折口の術語同士が複雑に絡み合っている理由もわかるように思うがどうだろうか。

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