※以前別のブログで書いた文章をそのまま掲載しています。
しばらく聞き書きが止まっていました。今夏の暑さで熱中症にかかり、その後遺症に苦しんでいたのが主な理由です。それ以外にもいくつか報告を書いていたり、転職活動をしていたりという理由もありますが・・・・・・。
その間もなんとなく読書は続けていて、しばらくはその貯蓄を吐き出していこうと思います。
再開後、一本目は折口信夫の講演記録から。
「民族の記憶のありさまは、一個人の記憶力とは違うて、だんだん忘れていくうちに、俄然として記憶の復活すること、間歇遺伝とも言うべきことがある。忘れていくゆくのにもいろいろな状態があって、それが調和した状態にあるのだから、普通の物忘れとは違い、どこかに種が残っていて、それが五百年、千年とたって、俄然として芽を出すのである」(14頁)
最近、取材した神事は近年「復活」したものでした。再会にあたっては、市町村史の類いを参照しながら、「復活」することになりました。
私自身は「復活」というよりも、記録された民俗の再解釈による新しい伝承の創造だと捉えています。
閑話休題。
この伝承における「間歇遺伝」について、折口はどんな風に考えていたのでしょうか。今後、少し追いかけてみる必要がありそうです。もっとも折口は、現代の民俗のなかに古代を見いだしていた訳ですから、そのあたりは差し引いて考える必要がありそうです。
「私として、一番にいけないところは、比較が比較で終らずにまう一つ上に、目的を据ゑるーー謂はば、日本人の発足点なる古代に研究題目を置いてゐる事だつた。比較研究が行はれるか行はれないかの先に、直ちに古代の知識が迎へに来てしまつて、古代研究やら現代観察やら、訣らなくなることが多かつた」(『全集第十五巻』所収「地方に居て試みた民俗研究の方法」(30頁)より)
「間歇遺伝」も含め、この作品では民間伝承における時間を問題にしています。また、それは民間伝承の「記録」の問題でもあります。
「民間伝承は、記録せられれば固定して、一つの儀礼という形式になってしまう。文字で書きとめることは、同時に民間伝承の発達が止まってしまうことである。しかし、普通には民間伝承は常に変化する」(19頁)
「ところが、変化ばかりしてゆくということは、物事の常の状態ではない。変化していくうちに固定がある。ともかくも習慣を変えることを一つの罪悪と考える頭がある。つまり神の心に背くのだと考えるのである」(20頁)
先週、某所で行われたシンポジウムにお仕事として参加してきた際にも、「記録」が問題になっていました(詳細が書けないのが残念ですが・・・・・・)。個人的に一番面白く、そしてよくわからなかったのは以下の記述です。
「これらの民間伝承が発達させ、それを守り保ち、またそれを崩してゆくところのいろんな原因になるものが集まって、昔からずっとわれわれの時代にまで民間伝承はつづいてきているのだが、その民間伝承における時間というものは、普通のわれわれが考えているような、ある一世紀で変化するというものではない。(略)民間伝承における時間は、非常に長いこともあり、非常に短いこともある。千年ぐらいのことは問題にならぬ。かと思うと、ごくわずかな時間の差が非常な力を及ぼすこともある」(20ー21頁)
前半はともかく、後半は「どっちだよ!!」と突っ込みたくもなりますが、おそらく「間歇遺伝」とも関係した記述だと思われます。
ほかの著作も読んで理解していくしかなさそうです。