
※以前別のブログで書いた文章をそのまま掲載しています。
祝詞に含まれる祝詞以外のものについて述べている。祝詞以外のものとは、すなわち壽詞と鎮詞である。折口は祝詞の中には、壽詞と鎮詞が紛れ込んでいるという。 まずは祝詞の定義を見てみる。
「祝詞は、天皇の資格で、その御言葉とほりに、中臣が云ふのである」(256p)
つまり、みことを伝えるみこともちとしての性質を発揮した状態で告げる言葉が祝詞だということになる。 みこともちの理論については、「神道に現れた民族論理」がわかりやすいと思う。
「神道に現れた民族論理」(『折口信夫全集第三巻』)
いくつものキーワードが出てくる作品だが、おそらく「みこともち」を中心にそれぞれの理論が展開している。
次は壽詞の定義付けを見る。
「壽詞のよは、時代によつて変遷もあつたが、いのち・壽命などの意で、又魂を意味する。此を唱へると、唱へかけられた人に、唱へ方の魂が移るのである」(254p)
これもほかの理論の援用だ。来たり来る外来魂から分割した魂の付与、遊離しやすい魂の鎮魂を変遷として捉えた「ふゆまつり」の理論だ。これは「大嘗祭の本義」に書かれている。

「大嘗祭の本義」(『折口信夫全集第三巻』p174-)
第三巻も半ばにきて、折口の術語オンパレードの感がある。ちなみに、第四巻からは万葉集なので、それはそれでしんどいように思う。まずは「まつり」の意味の変遷を述べている。
三番目の鎮詞は「いはひごと」といい、いはふという言葉の意味から考えている。
「いはふといふ言葉は、今、神にいはひこめる等いふのと、略同じ意味である。これはいむから出ている。いむは、単に慎むといふ意で、いまはるとなると、その上に、身の周りを浄める意味が出て来る。いはふは周囲や浄めて中に物を容れる、又はくつ附けるといふ意味である。即、魂をくつ附けて、離さぬやうにするのである」(255p)
この鎮詞についての理論は、新しいものではなく、「大嘗祭の本義」で述べられたことのバリエーションだ。ただし、次の点が付け加えられている。
「氏族の代表が、本当に服従を誓うた後、其下に属してゐる者に、俺もかうだから、お前等も、かうして貰はねばならぬ、といふやうな命令の為方である(略)だから、鎮詞は、祝詞の言葉の命令的なるに対し、妥協的である。其で鎮詞は、大抵の場合は、土地の精霊が、自由に動かぬやうに、居るべき處に落ちつける言葉になつてゐる」(256p)
この記述における比較に折口の特徴は見られるだろうか。それこそほかの研究者と比較してみないことにはわからない。
読み進めてみれば、折口が設定する語の関係性に気がつく。まさにリンクによって関係を構築できるウェブは、折口を読むための道具として優れているのかもしれない。