
※以前別のブログで書いた文章をそのまま掲載しています。
「ほかい」の理論から「くぐつ」についても説明を試みている。「ほかい」に関する記述はフォローしてこなかったので、わからない部分もあるが、この作品では次のように要約されている。
「此民(注・くぐつ)の持つて歩いた人形と言ふのは、恐らく、もと小さなものであつて、旅行用具の中に納めて携帯する事が出来たのだと思ふ。さうした霊物を入れる神聖な容器が、所謂、莎草で編んだくぐつこであつたのだらう。さう考へて見ると、此言葉の語源にも、見當がつく。くぐつは、くぐつこ・くぐつとの語尾脱落出はないだらうか。恰も、山の神人の後と考へてよいほかひびとの持つ行器が、神聖なほかひである様に、海の神人の持つ神聖な袋が、くぐつこであり、其に納まるものが、霊なるくぐつ人形であつたのだらふ」(327p)
ある文化事象から取り出した枠組みを、ほかの事例に当てはめてみることは、折口の思考の特徴であるという推測は、当たっているらしい。ここでも、「ほかひ」をもっと「くぐつ」を理解しようとしている。 もう少し「くぐつ」の理論を追う。
「くぐつの遣うた人形は、くぐつ自身の仕へる神であつた。其は八幡神などの主神に対しては、精霊の位置にあるものである。少くとも、我が国の古代の論理から云へば、或種族が、他の種族に降伏すると言ふ事は、同時に、祖先の奉仕してゐる神と共に、降伏して居つたと言ふ事になるので、歴史的に翻訳して言ひ換へると、祖先の神以来、服従して居つたと言ふ事になるのである」(329p)
神と精霊との征服/降服の関係は前にもみた。これも核となる考え方のひとつに違いない。面白いのは後半だ。種族同士の征服/降服の関係は、それぞれが持つ神にも当てはめられると折口は言う。つまり、それぞれの神代にさかのぼり、征服/降服の神話が生まれるということだろう。これはどんな実例をもって理論立てたのか。まったくの空想ではないだろう。きっとどこかに痕跡が書き込まれている。
この作品は全体的に読めない部分が多い。たとえば、次の記述もよくわからない。
「社々の祭礼に出るお迎へ人形系統のだし人形は、祭りに臨む神を迎へて、服従を誓ふ精霊の形の変化ではあるが、此が逆に、祭礼に来臨する神其ものの形にもなるのである。同じ事は、虫送りの人形に於いても言へる。或は、ひな祭りの人形に於ても言へるのだ」(330p)
思い当たる民俗事象に秋田県南部の横手盆地における草人形がある。村人によって作られた藁人形は、地域内を巡行した後、村はずれに祀られ、境の神になる(この人形については、神野善治『人形道祖神ー境界神の原像』に詳しい)。
ケガレを背負うた人形は、本来的には祭りに臨む神によって、祓われるべき存在(精霊)である。そこには本来、彼方からやってくる神と土地の精霊がいた。が、土地の精霊を追いやる訳にもいかない。その忘却と合理化の課程において、祓われるべき精霊を宿した人形は、追いやることが出来ぬ故に、祭りに臨む神の観念が吸収されることになる。結果的に、ケガレを寄りつかせた藁人形が、村はずれを守る境界神になる。
理屈としてはわかるが、それが正しいかどうかはわからない。ただ例に挙げた 藁人形の文化の理解は可能だと思う。